卒業制作のこと

書けば書くほど収拾がつかなくなる。書きたいことがどんどん増えて行き、文章は意味をなさなくなる。その繰り返しだった。自分が明確に伝えたいことをひとつ決めてからで無いと、これほどまでに難航するものなのか、と思い知らされた。


結局、考えに考えてでた結論は「インターネットをやろう」というものだった。「パソコンがあってネットが繋がっていればどうにかなる」というphaさんの言葉や、実際に自分や友人がtwitterによって住む場所やコミュニティを得て生活が成り立っていった事実が頭の中で渦巻いていた。

思春期に、整理しきれなくなった考えを日記や小説のようなものにしてネットに吐き出すことを覚えてから、少しは人生がマシにおもえるようになったこと。逃げる場所までいかないけれど、王様の耳はロバの耳と叫ぶための穴をもらった気分だった。書くことが辛いときも、楽しいときも、ひたすら書き続けることができる場所。紙に書いたら誰かにみつかってしまう、誰が書いたかわかってしまう。身近なひとにはみられたくないけれど、どこかの誰かが見てくれていたらそれでいい。


ブログを書き続けて一方通行に慣れきってからtwitterをはじめ、しばらく経ったときに、ネットに対する考えが自分の中で変容しているのに気付いた。というより、気付かされた。
ネットのむこうにはひとがいるということだ。
ネットをするということ、ブログを書いたりtwitterにポストをするということは、思っていたような一方通行な行為ではないのかもしれないと。わたしの書いたものを読んで、何かしらの考えを持ったひとも、いるかもしれない。吐き捨てる様に書いていた言葉の連なりは意味をもつようになり、私は独り言をやめた。多分、これはもう独り言ではない。

どうしようもなく辛い日や、楽しくて仕様がない時、苦しい瞬間も嬉しいときも誰かに伝えたいものだ。その、まさにそれが起こっているときに。隣に誰もいないとき、ネットがそれを助けてくれる。空虚な機械に自分の気持ちを投げかけているのではない。画面の向こう側には、誰かがいるということを私は知っている。

そんなようなことを「インターネットが人間同士の繋がりを助ける可能性」みたいなテーマで書きたかったんだけれど、字数制限と時間が光より速く過ぎ去ったので無理だった。
24日は修了式。卒業制作の講評も行われる。正直とても怖い。初めて、ひとに読まれる事を意識して、考えに考え、まとめたものだ。これをダメ出しされるのはさぞ辛いだろう。また楽しみでもある。いっそ真ん中から破り捨ててほしいくらいだ。そうしてもらえなかったら、どこかの川縁で燃やしてしまいたい。