欠陥人間が好きだ

仕事終わりに、本屋に行った。車で送ってもらう時間まで大分あったので暇つぶしに、と思ったけれど何も買わなかった。お金貯めなきゃな、と思うとなんとなく本を買うのも躊躇するようになる。あれだけ読みたかった漫画も、一度手に取って戻した。
何もお金がかかるからだけじゃない。本を読む、ということは「インプットでありながらアウトプットでもある」からだ。文字やストーリーを頭にいれるとそれについて考える。その分、自分がそれを読む前に考えていた事がひとつ消える。私の頭は単純なので、ところてん式にアウトプットしようと思っていた事がひとつ無くなってしまうのだ。本当は本を読んだことなんかよりも大事な考えが、消えてしまう。
そういうわけで部屋の中にある漫画を全て処分することにした。といっても半分は実家に送る。家に置いておくのは小説と、勉強や仕事に必要な書籍だけ。これで本が場所をとることもなくなり、一石二鳥だ。
本屋に行って、無数に並べられている本を見ながら「書かなきゃ」と繰り返し思った。書かなければ。書かなければいけないのに今まで何をしていたんだろうと。こんなに世の中に本が溢れているのに私の本がまだ無いなんて。書かなければ、形にしなければ、そしてここに私の本を平積みにして置いてやるのだ、と。書かなければ、なんなんだとも思うけれど、全ての、本当の、一番の目的はそれなんだから。それ以外の事なんて私の人生にとっては全てオマケでしかありません。もし頭から全ての文字が消え去り言葉を失ったら、私は死ぬしかない。目が見えなくなっても、頭がおかしくなっても、キーボードを打つ手があれば何か書く事ができるだろう。何者もわたしから、言葉を決して奪いませんように。言葉は全ての希望であり、絶望で、翼で、二本の足なのだから。

人の子供が立って歩いていくように言葉をつなぎ合わせていきたい。前は文章を書く事をうんこするようなものだと思っていたけど、本当は出産なのかもしれない。そうじゃなければ私は自分のしたうんこを読み返しては推敲し、また新しいうんこをするという文学的スカトロジストになってしまう。でも出産だと相手が必要だし、やっぱりうんこかもしれない。いいうんこを沢山したい。そのための食事はもうたっぷりした。あとは便器に座るだけだ。



欠陥人間が好きだ、というのは自分も含めてダメな子ほど可愛いなと思うからです。完璧な人に、人の心を惑わす事は、出来ない。