バックグラウンドの見えないコミュニケーション

デジタルネイティヴには当然のコミュニケーションのかたち

私がWEB上に自分の考えや日常の何気ない記録、小説ともポエムともつかない作品をアップロードし始めてから8年になる。中学2年生からメールマガジンや、携帯ホームページを通して二次創作を始め、ブログを書いた。作品を好いてくれたひとと会う事や、素性の知れない者たちで集まって交流するオフ会にも、中3の時に参加しはじめた。その人が何をやっているどんなひとか、という背景をまったく知らない状態でのコミュニケーションは、今でも私にとっては当たり前の日常だ。



その後、18になり、BARで働き始めた時に、同じ考えを持つ人々に出会って少なからず驚いた。飲み屋に来る人の中には、自分の素性を明かしたがらない人も少なくない。仕事や、家族構成、出身はどこか・・・そんな野暮なことは聞くんじゃない、とでも言いたげなひとは結構多い。恐らく、自分をそういった雑多な項目で判断されるのが嫌なのだ。つまり、それだけ毎日、他人からそういう扱いを受けているということだ。

現代人はバックグラウンドの見えるコミュニケーションに疲れ果てている

まず第一に体型や顔といった見た目、そして職業、出身大学、高校、出身県、親の職業、持ち家か借家か、結婚しているのか、子供はいるのか、趣味や特技・・・人に生まれて社会生活を営む以上つきまとう個人情報は、その人がどのような人物か判断する重要な情報である。
果たしてこれからもそれが通用するのかは疑問だ。匿名で交流を深めることのできるコミュニティはいくらでもあり、これからも増え続けていくだろう。いずれネット上で本名や職業や住所が意味を持たなくなる日が来るのではないか、とすら思う。
2chで40代の男性が女子高生を名乗ってスレッドを立てることも、twitterでアイドルのアイコンを使ったりbioに何も書かないこと、職場のひとにネット上のアカウントを知られたくない事も、ひとしく同じ意味がある。
『もうこれ以上、自分をバックグラウンドで判断しないでほしい。』
ネット上でなら女子高生にもアイドルにも、詩人にも天才にも大統領にもなんにだってなることができる。例え現実で死んだとしても、ネット上でなら生き続ける事もできる。交流のあったユーザー達に生きていると思わせ続ければいいだけの話だ。

ネットの向こうには人がいるということ

たまに「ネットでばっか友達つくって空しくないの?」と聞かれることがある。
何が空しいと思わせたのだろうか?私は友達をつくるきっかけとしてネットを使っているだけで、友人達は現実世界に暮らす人間だ。別にbotを友達だと言っているわけじゃない。
悲しい事に、「SNSはすべて出会い系で、mixiは犯罪の温床で、twitterは独り言を言っている寂しいひとたちの集まり」、だと思っているひとのほうが世間には遥かに多い。趣味はネットです、というと友達いないんだと思われる事がほとんどである。
そういう人々に知ってもらいたいことは、ネットを使っているのは生きている人間で、悪い奴もいい奴も等しく存在しているということだ。

効率の良いコミュニケーション手段としてのインターネット

普段、ひとが1日に、交流出来る人数は限られている。例えばホステスのような1日に何人も、知らない人と会話をするのが職業の人でも、20人話せればいいほうだと聞く。ではパーティはどうだろうか?お酒が入り、もし1人のひとと意気投合して話し込んでしまったら、人数はもっと少なくなる。
ブログに1日100人訪れたら、自分の考えを100人に伝える事が出来る。twitterにfollowerが1000人いたら、自分の考えをリアルタイムで1000人に伝える事が出来る。このように考えると、現実世界のコミュニケーションの非効率的な部分はどうにかしてほしいなーと思ってしまう。
便利で、リアルタイムで、先入観を与える事なく、より沢山の人に、口で話すよりは精査された自分の考えを伝えられるのはインターネットだけ!



だからみんなもっとインターネットしましょう。